活動について
各地域での活動
活動レポート
- 地元への深い愛情が人々を「絆」で結ぶ
- 郷土料理の商品化で食文化をつなぎ地元に誇りを取り戻す
- 人々の想いが新たなブランドを創り出す
- 被災した工場が被災地を応援するという取り組み
- 鯉ブランド復興にオール郡山で取り組む
- 宮城県の食材のファンを作る試み
地域のニーズに合わせた支援を届ける (1/2)
カキ養殖の再開後も困難に直面する人々
牡鹿半島の付け根に万石浦(まんごくうら)と呼ばれる海域がある。太平洋から内陸へと広がる、風船を逆さにしたような形の内海だ。太平洋とつながる南側の湾口部分(風船だと空気を入れる部分)の幅は、わずか150メートル弱しかない。一方、その北側には7.4キロ平方メートルにも及ぶ大きな湖のような内海が広がる。波の穏やかな地形を利用し、万石浦ではカキの養殖が盛んに行われてきた。
震災による津波は、狭い湾口部の陸地や海底を削りながら万石浦へ達したことから、万石浦奥深くまで大きな波が押し寄せることはなかった。しかし、勢いこそないものの水位は増え続け、1メートル地盤沈下した万石浦沿岸の住宅地は甚大な浸水被害にあった。
宮城県漁業協同組合石巻湾支所(以下、石巻湾支所)のカキ処理場もその1つ。石巻湾支所は万石浦沿岸に3つのカキ処理場を抱えていたが、津波により1つが全壊した。しかし組合員の努力により、残った2つの処理場を使って2011年10月からカキの養殖を再開。宮城県内でもっとも早くカキ養殖の再開を実現することができた。
宮城県内でもっとも早くカキの養殖を再開した石巻湾支所のカキ処理場
2011年はカキ養殖施設の7割が復旧し、水揚げ量は5割まで回復した。2012年は施設関連を9割まで復旧させ、水揚げ量は金額ベースで3億円(震災前は4億円)まで回復させることを目指している。
その一方で、震災に耐えた2つのカキ処理場も問題に直面している。
隣接する2つの処理場は、震災の影響で1メートル地盤が沈下した。地盤のかさ上げはしたものの、台風や低気圧が到来すると、カキ処理場内に雨水や海水が浸水することがあるという。そこで石巻湾支所では、2つの処理場の移転に向けた計画を進めている。
震災前、3つのカキ処理場では67家族、約280人がカキの養殖に従事していた。震災後、全壊した処理場にいた人々も残った2つの処理場に移って仕事を続けていたが、その数は52家族、約200人にまで減ってしまった。震災の影響により廃業を決意した人が相次いだためだ。
2つのカキ処理場では震災後も継続的に作業が行われている。写真左はカキ殻をむく人々。写真右はカキを洗浄している様子
さらに、カキ養殖を続けようと懸命に働く人々にも、辛い現実が待っていた。
「2011年は震災の影響もあり、被災地である宮城県産のカキの消費が落ち込みました。
早期に養殖を再開した私たちは、「復興カキ」としての価格を期待したのですが、宮城県産ということで買いたたかれましたね。何より辛かったのは、宮城県内でもスーパーなどに外国産のカキが並んだことです」
石巻湾支所の支所長を務める阿部卓也さんは、辛い記憶を淡々と話し続けた。結果的に2011年は、養殖を早期再開したにもかかわらず、シーズン序盤からカキの消費は低迷し、回復するまで生産調整を余儀なくされたという。
キリングループが展開する「復興応援 キリン絆プロジェクト」では、石巻湾支所に対して万丈篭の支援を行った。その数は、1つの家族に対して32個。石巻湾支所では52家族が仕事を続けているので、総数は1700個近くにものぼる。
支援された万丈篭は、カキの水揚げから処理場までの運搬に重宝されている。大量の万丈篭は、カキ養殖の早期再開を実現しながらも困難に直面した石巻湾支所の人々を、大いに勇気づけてくれることだろう。