活動について
各地域での活動
活動レポート
- 地元への深い愛情が人々を「絆」で結ぶ
- 郷土料理の商品化で食文化をつなぎ地元に誇りを取り戻す
- 人々の想いが新たなブランドを創り出す
- 被災した工場が被災地を応援するという取り組み
- 鯉ブランド復興にオール郡山で取り組む
- 宮城県の食材のファンを作る試み
再び青ノリを出荷することを目指して (3/3)
松川浦の再生に全力を尽くす
目録を受け取った南部組合長は、キリングループが東北の沿岸各地で青ノリをはじめとする養殖支援をしていること、また、日本財団が震災直後から被災地で復興支援を続けていることに対し、感謝の言葉を述べた。
キリングループと日本財団に対して感謝の言葉を述べる南部組合長
「相馬双葉漁業協同組合では101名の組合員が命を落としました。松川浦支所においても事務所は1階が浸水し、漁船はすべて流されました。周囲を見渡せば、ガレキの山でした。震災後、施設の復旧は進みましたが、原発の影響により2年が経過した今も試験的な養殖しかできていません。今回のご支援は本格的な養殖再開に必要なものであり、組合員もとても喜んでいます。復興はまだ始まったばかりで、険しい道が残っていますが、全力で取り組むことをここに誓います」
南部組合長の誓いの言葉は、会場にいた組合員の思いを代表したものだったに違いない。
また、生産者を代表して、松川浦支所で支所長を務める杉目一郎さんからも挨拶が行われた。杉目支所長は松川浦での青ノリ養殖がいかに大変な道のりをたどってきたか、その歴史を語った。
「キリングループによる本格的な支援に、本当に感謝しています。松川浦のノリの歴史は100年以上、黒ノリから青ノリに変更してからも約40年の歴史があります。青ノリは当初、生産・加工・販売、そのどれもが思い通りにいきませんでした。佃煮の材料としてだけでは消費量も少なかったのです。そこで生食を提案したり、乾燥ノリを佃煮以外の用途として出荷することで、販路を広げていきました」
松川浦の青ノリ養殖がたどった苦難の道のりについて語る杉目支所長
苦労の末に広げた青ノリの販路。しかし震災により壊滅的なダメージを受けたことで、一時は養殖再開を諦めざるをえない状況だったという。
「震災後、松川浦は荒れ果てていました。漁場として再開を見込めないほどでした。実際、もう再開はできないだろうという声もありました。そこにキリングループの支援のお話が来たのです。これは『松川浦よ再生しろ』という後押しの声のようにも思えました」
キリングループによる支援をきっかけに、養殖再開への道を歩き出した松川浦。本格的な復活のカギとなるのは、青ノリの種を採取する種場を確保できるかのようだ。
「震災による津波で種場も破壊されました。現在は、新たな種場を開拓する一方で、松川浦に残った種や他県から譲り受けた種を育てています。こうして育った青ノリが種を落とせるようにするためにも、種場の確保は欠かせません。そして何としても、震災後に失われたこの2年間を取り戻したいのです」
杉目支所長の養殖再開に向けた力ある言葉に、会場の誰もが共感を覚えたことだろう。
贈呈式の最後には参加者による記念撮影を行い、式そのものは滞りなく幕を閉じた。
登壇者による記念撮影(左)と松川浦支所の関係者を交えた記念撮影(右)
松川浦では震災後2年間、青ノリの出荷ができず、3年目となる今年も出荷が確約されたわけではない。それでも松川浦の養殖業者たちは、再び出荷することを目指して、養殖の作業をひたむきに続けている。キリングループによる「復興応援 キリン絆プロジェクト」が、彼らの努力をさらに後押しする支援になることを期待したい。
取材協力/有限会社パワーボール、写真撮影/和田剛