活動について
各地域での活動
活動レポート
- 地元への深い愛情が人々を「絆」で結ぶ
- 郷土料理の商品化で食文化をつなぎ地元に誇りを取り戻す
- 人々の想いが新たなブランドを創り出す
- 被災した工場が被災地を応援するという取り組み
- 鯉ブランド復興にオール郡山で取り組む
- 宮城県の食材のファンを作る試み
すべては青ノリ養殖を復活させるために (3/3)
諦めずにできることをやる
震災前、松川浦では青ノリ養殖を営む経営体(養殖業者)が69を数えた。驚くのは、震災後、この数がまったく変わっていないということ。養殖業者は高齢化が進み、若くても40歳代、最高齢者は80歳を超えていたが、誰一人として震災を理由に養殖業をやめようとはしなかった。
そこで松川浦支所では、震災後に設置できた3千5百柵のノリ網を、震災前にあった2万4千柵の持ち分の割合に応じて、69の養殖業者に配分した。
3千5百柵のノリ網は、震災前と同じ割合で養殖業者に配分された
ノリ網を配分されている以上、網の手入れや種の維持、また、漁場の整備などをする必要がある。しかし、こうした作業を続けても、出荷ができなければ収入には結びつかない。それでも松川浦の養殖業者たちは、青ノリの養殖に携わることに喜びを感じているようだ。
「お金にならないはずなのに、養殖の作業をする皆さんは、本当にいい顔をしているんです。2011年度はまったく青ノリの養殖ができませんでしたから、再び携われることが嬉しいのでしょうね」
養殖業者の仕事ぶりを間近で見ている太田さんには、彼らの気持ちが痛いほど伝わるのだろう。
昔から青ノリ養殖という仕事は、決して高収入が見込めるものではなかった。その大きな原因の一つに、青ノリの用途が全国に知られていないという事実があった。流通業者の間では、青ノリと言えば佃煮の材料にする程度という認識を持つ人がほとんどだった。そのため青ノリだけでは食べていけず、農業など他の仕事と掛け持ちする人も少なくなかったという。
そうした状況が、震災の5年ほど前から徐々に変わってきた。青ノリを天ぷらにしたり、みそ汁に入れたりといった、多様な食べ方が広まってきたからだ。その背景には、青ノリの多彩な用途を知ってもらおうと、広報活動を続けてきた人々の努力がある。
その結果、近年は青ノリの単価が上がり、養殖業者の高齢化が進んでいた松川浦でも、息子や孫が養殖をするために戻ってくるようになっていた。
その矢先に起きたのが、東日本大震災だった。
「依然として厳しい状況であることに変わりませんが、決して諦めず、できることを続けていきます。この気持は、松川浦支所の職員も養殖業者も同じでしょう」
太田さんの表情からは、松川浦の青ノリ養殖を復活させることに対する、強い信念を感じた。
長年の努力が実り、ようやく新たな光が見え始めたところを、震災により青ノリ養殖そのものを奪われてしまった松川浦。そしてこの2年間、震災の被害から立ち直ろうと懸命な努力を続けてきた。しかしいまだに、放射能という見えない敵と戦うことを余儀なくされている。
そうした中、キリングループにより贈られた支援は、松川浦で青ノリ養殖に携わる人々の気持ちを、さらに鼓舞するものになったことだろう。決して諦めることをしない松川浦の人々は、キリングループの支援を糧に、青ノリの出荷を目指して一歩ずつ歩を進めていく。
震災に負けず、たくましく成長した青ノリを再び出荷できるよう、松川浦の人々の努力は続く
取材協力/有限会社パワーボール、写真撮影/和田剛