活動について
各地域での活動
活動レポート
- 地元への深い愛情が人々を「絆」で結ぶ
- 郷土料理の商品化で食文化をつなぎ地元に誇りを取り戻す
- 人々の想いが新たなブランドを創り出す
- 被災した工場が被災地を応援するという取り組み
- 鯉ブランド復興にオール郡山で取り組む
- 宮城県の食材のファンを作る試み
ワカメの復活が町の復活につながる (2/3)
漁業者が一致団結して苦難を乗り越える
唐丹漁協にはワカメの養殖を営む組合員が120名いたが、震災後、77名まで激減していた。ワカメ養殖を辞めた人の多くは70代。高齢であることに加え、後継者もいない。そこに追い打ちをかけた震災が、彼らに仕事を辞めさせる決断をさせてしまったのだ。
唐丹町には高齢の漁業者が多い(写真は津波で破壊された加工施設の中で作業をする唐丹漁協の組合員)
ワカメ養殖を続けると決めた77名にも、新たな試練が待っていた。
津波でほとんどの漁船が流されたため、ワカメ養殖に必要な施設を海に設置しようにも船がない。唐丹漁協が残った船や中古船を買い集め、ようやく1船に2人ずつが乗り込んで作業できることになった。しかし、震災前から続いていた高齢化の影響が、2人1組の作業をより困難なものにさせる。
「組合員には高齢者が多いのですが、高齢者同士で作業させると大変なので、可能な限り若い人と組ませるようにしました。最初は高齢の組合員たちも若い者には負けないと頑張っていたのですが、だんだん若い人のペースについていくのが大変になったようです」
唐丹漁協の木村さんは、昨年8月に行われた種付け時の様子をそう振り返った。
唐丹では昨年8月にワカメの種付けが行われた写真提供/唐丹町漁業協同組合)
それでも、被災した同じ唐丹の組合員として、気持ちを一つにすることは忘れなかったという。
その一例が、ワカメの収穫を全員が均等に分け合ったことだ。
通常、ワカメの収穫量は各人によって異なる。成果主義の世界だ。しかし震災後は、船などを共同使用したこともあり、唐丹漁協は収穫量を均等配分することを提案した。すると反対する組合員は一人も出なかったという。
今年の春に収穫されたワカメは均等配分された(写真提供/唐丹町漁業協同組合)
ワカメ養殖の施設に必要な浮きや重しは、唐丹漁協がキリングループの「復興応援 キリン絆プロジェクト」を活用しながら支援した。また、養殖の範囲を決めることにもなるロープは、組合員の共済金で賄った。この共済金は、震災2日前の2011年3月9日、津波への備えとして唐丹漁協の木村さんが組合員に呼びかけたものだった。掛け金は月1000円で、津波の被害に遭うと最大80万円の共済金が下りる。3月10日に共済の効力が発生し、翌11日にまさかの津波が到来したのだ。木村さん自身も意図しない、あまりに絶妙なタイミングでの共済加入だった。
お陰で、組合員たちは震災後の苦しい時期に自費をねん出することなく、共済金でロープを購入することができた。ロープの長さもすべて200メートルで統一し、収穫面積にも差が出ないようにした。
「昨年8月から、組合員と漁協の職員が力を合わせてワカメの養殖に取り組みました。今年4月に行われた収穫の量は、例年の半分以下の1100トン。設置できる養殖施設の数も限られていましたので、ある程度は覚悟していました」
それでも、販売金額は約1億7千万円に到達。例年だと3億円あまりなので、生産量は半分以下だが、生産額は半分を超える結果となった。ワカメが高値取引された背景には、被災各地のワカメ生産量が減り、需要が供給を上回ったこともあるが、組合員たちが協力して価格交渉を続けたことも功を奏したと木村さんは考えている。
唐丹町では昨年、漁船不足でウニやアワビの収穫を断念せざるを得なかった。ホタテは種付けしていたものがすべて流されてしまったため、新たな種付けから収穫まで2年も待たなければならない。そうした状況の中、震災翌年にワカメの収穫を実現できたことは、唐丹町の人々にとって大きな励みとなったに違いない。