活動について
各地域での活動
活動レポート
- 地元への深い愛情が人々を「絆」で結ぶ
- 郷土料理の商品化で食文化をつなぎ地元に誇りを取り戻す
- 人々の想いが新たなブランドを創り出す
- 被災した工場が被災地を応援するという取り組み
- 鯉ブランド復興にオール郡山で取り組む
- 宮城県の食材のファンを作る試み
震災の避難場所としての機能を果たした工場 (1/3)
近隣住民が避難してくる工場
宮城県仙台市の東部に位置するキリンビール株式会社仙台工場(以下、仙台工場)は、1923年に操業を開始し、今年で89年目を迎える。東北地方で一番長い歴史を持つビール工場としても知られている。
30万平方メートル(東京ドーム7個分)を超える広大な敷地では、196名の従業員(2011年6月30日現在)が日々、「キリン一番搾り生ビール」や「キリンのどごし<生>」などの製造に励んできた。
2011年3月11日午後2時46分。いつものように業務を続ける仙台工場を、震度6強の巨大地震が襲う。
地震発生と同時に工場は停電。ラジオで地震や津波の情報を確認しつつ、各職場で避難が開始される。点呼を行い、確認が取れない若干名の捜索も始められた。工場の敷地内には、従業員や工場関係者だけでなく、工場見学やレストランに訪れている一般のお客様もいた。そうした人々を敷地内にあるグランドへと誘導していく。
同じ頃、近隣住民も仙台工場へと避難を始めていた。背景には、2008年5月、仙台市と仙台工場が「津波発生時における緊急一時的な津波避難ビルとしての使用に関する協定」を締結していたという事実がある。協定締結後、近隣住民も参加しての防災訓練を実施していた。その結果、近隣住民の中でも仙台工場が「津波避難ビル」であるという意識が定着していたのだ。
地震発生からわずか40分後の午後3時30分には、従業員と工場関係者352名、お客様と近隣住民129名、計481名が敷地内にあるビルの屋上に避難を完了した。当初は防災訓練の通りグラウンドに避難していたが、大津波警報が発令されたことを確認し、屋上へと避難場所を変えたのだ。
ビルの屋上に避難した人々。写真手前では、ビールを貯蔵するタンクが倒壊している様子が見える(写真提供/キリンビール仙台工場、共同通信社)
そして避難完了から20分後の午後3時50分に、仙台工場が隣接する仙台港に7.2メートルの津波が到達。仙台工場の敷地にも津波が流れ込み、すべての建物の1階部分が浸水した。
しかし、津波到達時には全員がビル屋上に避難していたため、津波に巻き込まれる事態を避けることができた。