活動について
各地域での活動
活動レポート
- 地元への深い愛情が人々を「絆」で結ぶ
- 郷土料理の商品化で食文化をつなぎ地元に誇りを取り戻す
- 人々の想いが新たなブランドを創り出す
- 被災した工場が被災地を応援するという取り組み
- 鯉ブランド復興にオール郡山で取り組む
- 宮城県の食材のファンを作る試み
震災の避難場所としての機能を果たした工場 (2/3)
日頃の備えによりケガ人ゼロを実現
ビルの屋上に避難はできたものの、3月上旬の仙台は寒さが厳しい。しばらくすると、雪も降ってきた。また、屋上には危険防止用の柵が設けられていたため、避難した481名は柵の中で身を寄せ合うように立っている他なく、環境は劣悪と言わざるを得なかった。 こうした状況を踏まえ、地震発生から約2時間半後の午後5時半、津波が建物1階までしか浸水していないことを確認した上で、481名全員を2階へと移動させた。
移動後、消防署へ被害状況を報告するとともに、防災用の備蓄品や売店用の在庫などを使い、飲料と乾パンを配布。お客様や近隣住民には布団や毛布も支給した。1台だけ確保できた発電機を利用して、テレビをつけて情報収集をしたり、携帯電話を充電して連絡手段の確保にも努めた。
こうして長い長い1日を何とか乗り切り、翌朝、仙台市災害対策本部への支援要請により派遣された自衛隊の輸送車で、各自が安全な避難所へと移動した。仙台工場から481名全員が退避を完了したのは、地震発生から19時間後の3月12日午前9時半だった。
仙台工場は地震により、屋外に設置されているビールの貯蔵タンク15基のうち4基が倒壊。津波は缶やビンの製品の他、製品を運ぶパレットなどを大量に流出させた。また、排水処理設備や電気関連設備が浸水するなど、被害は甚大なものだった。
その一方で、仙台工場に避難していた481名は、誰一人としてケガを負うこともなく、無事に避難所までたどり着くことができた。
これは常日頃から「津波避難ビル」としての役割を認識し、近隣住民を交えた防災訓練を行い、食糧や寝具などの備蓄があったからこそ、成し得たことだと言える。そして何より、未曾有の大震災であるにもかかわらず、従業員をはじめとした現場の人々が、防災訓練の教訓を生かしつつ、臨機応変に行動できたことが、ケガ人ゼロに大きく貢献したと言えるだろう。